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日本への引き渡しに備え シコタン島は1955年から4年間、空っぽだった

北方領土ノート

 南クリル地区の歴史から kurilnews.ru 2019/6/5

占領から1年後の国後島、色丹、歯舞の人口 ソ連人1,386人、日本人4,346人

●…1946年9月現在、南クリル地区(※国後島色丹島歯舞群島)にはソビエト連邦の市民1,386人(ロシア人、ウクライナ人、タタール人、ベラルーシ人、ユダヤ人、チュバシ人、モルドバ人)が登録されていた。島を離れることができなかった、または離れたくなかった日本人は4,346人がこの地域に登録されていた。当時はまだ本国への帰還の話はなかった。

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古釜布にはソ連人662人、日本人1,017人が登録

●…人口が集中していたのはフルカマップだった。この地区センターには662人のソビエト市民と1,017人の日本人が住んでいた。主な産業は漁業と林業。戦前は硫黄が生産されていた。

●…チノミノチ村(乳呑路、後のティアチンスキー村評議会)にはソ連市民140人、日本人949人が住んでおり、5つのヨード工場、2つの製材所、金と銅の鉱山があった。

●…シコタン村にはロシア人189人、日本人509人が暮らしていた。2つのヨード工場と捕鯨場があった。

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志発島にはソ連人520人、日本人850人

●…驚くべきことに、小クリル列島(歯舞群島)の比較的小さな島であるゼリョーヌイ島(当時のシボツ島)には、520人のソ連人と850人の日本人が住んでいた。戦前の缶詰工場がそのまま生き残り、稼働していた。1946年末まで500グラム入りのカニ缶詰を製造していた。

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1956年のソ日共同宣言 日本への引き渡しのためソ連人は島から追い出された

●…漁業も再建された。色丹島では「オストロブノイ」水産加工場が再建された。国後島では魚儀容コルホーズ「ロディーナ」「ポぺダ」「サラトフ・ルイバク」が設立された。

●…1956年に有名な宣言が出された。当時の国家のリーダーであるN.S.フルシチョフが日本に領土を引き渡す決定をした。シコタン島とタンフィーリエ島(志発島)に住んでいたソ連人は島か追い出された。サハリン州に残るクナシリ島に引っ越した。フルシチョフの近視眼的決定は時限爆弾であることが判明し、隣人同士であるロシアと日本の人々を脅かし続けている。

シコタン島は4年間、空っぽになった

●…シコタン島は1955年から4年間、事実上空っぽだった。マロクリリスコエ(斜古丹)村には4家族しか残っていなかった。しかし、1959年、南クリル諸島の海域で集魚灯を使ったサンマ漁が実験的に行われ、大量漁獲の可能性が明らかになった。ある工場ではサンマ缶詰の生産技術が考案された。当時、サンマはシコタン島にやってきた。