北方領土の話題と最新事情

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北方領土遺産 『クリル探検。ネガと文書...1946』…⑤

1946年のクリル遠征隊の記録 ~択捉島編~

 択捉島  1946年8月 6日~9月21日

 年萌       8月 7日

 小田萌硫黄山   8月10日

 程越       8月12日

 年萌       8月14日

 留別       8月16日 

 振別コタンケシモイ8月24日

 小田萌湾     8月26日

 宇多須都     8月27日

 神居古丹     8月27日

 老門       8月28日

 紗那近郊     9月 5日

 紗那沼、内岡   9月 7日

 内岡       9月 8日

 紗那       9月 9日~13日

 指臼山      9月13日~14日

 年萌       9月19日~21日

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囲碁という日本のゲーム。留別国民学校の裁縫室で(1946年9月19日)

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紗那の国民学校の校庭で遊ぶ日本とソ連の子供たち(1946年9月9日)

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留別国民学校で。お祭りで子供たちは着物を着ている(1946年8月16日)

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留別国民学校で。お祭りで子供たちは着物を着ている(1946年8月16日)

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留別村の日本の婦人が畑から戻ったところ(1946年8月16日)

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小田萌山の硫黄鉱山で硫黄を採掘し、運搬する人たち(1946年8月12日) 


アルチュシェンコフ千島探検隊長の報告(1946年8月21日)

●…8月6日の夕方に年萌村に到着して、修理中の軍隊基地に宿泊することにしました。探検隊員は、1ヶ月近く風呂に入ったことがなくて、全員で年萌村から9km西にある「セセキ」という温泉に向かい、身体を洗った後で温泉自体を調査して、写真を撮って、歩いて帰りました。

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小田萌山の硫黄鉱山に向かう遠征隊(1946年8月10日)

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年萌で地理学者エフレモフの説明を聞く遠征隊(1946年8月7日)

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温泉保養所。浴槽はコンクリート製である(1946年8月7日)

 

ヴォロビュフ『クリル列島の植物』(1963年刊)

●…択捉島オホーツク海岸及び太平洋沿岸にも、国後島オホーツク海岸にも、砂丘があります。昔からこの島に住んでいる人によると、この砂丘は家畜の放牧による海浜植物の絶滅のせいで最近出現したばかりだそうです。択捉島の太平洋沿岸の砂丘は、既に唐松の林さえ乗っ取っています。我々が島を訪れた時点では、枯れた唐松のこずえが所々砂から出ていて、その間に既に菅が生えていました。なお、ある砂丘の表面から、砂に埋もれていたバラの低木(150~180cm)のこずえ(30~50cm)も顔を出ていました。中には、枯れていない低木もありました。笹は2/3や3/4に砂に埋もれても枯れていないものもあって、かたくなに砂に抵抗しています。

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 留別川河口付近の砂丘(1946年8月16日)

 

アルチュシェンコフ千島探検隊長の報告(1946年8月21日)

●…クリリスク市役所の職員と国境警備隊員は、我々にできるだけ手伝うと約束したが、率直に言って彼ら自身もかなり貧乏な生活を送っています。自動車や船は殆どなくて、駄馬も少ししかいないので、日本人から馬を借りることが提案されました。しかし、馬の賃貸料金は1日12ルーブルで、その上に案内者にも10ルーブルを支払って、食料を与えなければならなくなります。このようなお金は払えないし、食料を与えるのはなおさら無理です。陸軍からの配給は少ないのです。

 

アルチュシェンコフ千島探検隊長の報告(1946年8月21日)

●…二種類の問題が発生しています。第一の問題は、島内で移動するための乗り物です。我々は、同じ方向に向かっている乗り物に頼るしかないのですが、そのような乗り物の数は少ないので、時間を無駄にしています。二番目の問題は、最近よくある望郷の念です。学生たちは、約束や試験や大学の事情などを言い訳にして、9月1日までにウラジオストクに帰らせてもらえるように申請しています。テレションコフさんも同じことを要求しています。現在、留別の停泊地に、数日後にウラジオストクへ出発する予定のシュミット中尉号が泊まっているので、学生たちはその船に乗ろうとしています。」

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年萌郊外で(1946年9月21日)

 

 

f:id:moto-tomin2sei:20190205134716j:plain留別村の全景(1946年8月16日) -- 1947年10月15日付けのロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の最高会議の常任幹部会の法令によって、クイビシェフ州から移住してきた移民にちなんで「クイビシェボ」と名付けられた。1947年7月の時点で村の人口は1,279人であり、その内の1,066人は日本人であった。

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留別川にかかる木橋(1946年8月16日)

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留別村の北側にある第2漁師村(1946年8月16日)  ※戦前の「イチマス」漁業加工場

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第2漁師村でカラフトマスを処理するソ連の女性たち(1946年8月16日)

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高台にある測候所から撮影した紗那村と紗那湾の全景(1946年9月9日) 

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1946年9月3日。択捉島で。帝国主義日本に対する勝利の日を記念して開かれたコンサート。ステージでは女子生徒が歌っている

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1946年9月3日の対日戦勝記念日

 

アルチュシェンコフ千島探検隊長の報告(1946年8月21日)

●…生物学者のコナコフさんとヴォロビュフさんは、北の幌筵島に行きたがっていますが、移動手段の問題は未だに解決されていません。我々は、北に向かう汽船があるか、あったとしたらいつ来るのか、千島列島北部からどう帰ればいいのか、一切分かりません。そうは言っても、北部に行かないと我々の仕事が未完成となってしまいます。

●…上記の状況を考慮して、こちらは幌筵島に行けるようになったら、生物学者をそちらに送ることにします。ゴルシコフさんとリマリョフさんは地質学や火山活動や地形学の情報を提供して、自分やラシュコフさんやコルスンスカヤさんは択捉島をより徹底的に調査して、もしかすると未だに全然調査していない国後島北部にも行けるかもしれません。そうすれば千島列島の中央部だけが未確認のままに残ることになりますが、その辺りには行けないという事は既に明らかです。あなたからも未だに何の指示や提案も頂いていなくて、残念です。地誌学者も乗り物がなくて、どうしても北部に行かざるを得ないスミルノフ中佐とイエフレモフさんも国後島からきた小船に乗って、得撫島のコンパネイスコイエ村まで行って、そこからは何とかしようとしています。なお、択捉島は未だに電信が使えないので、いつ連絡取れるか分かりません。

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単冠湾から年萌を望むパノラマ(1946年9月21日)

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単冠湾ではしけに乗る遠征隊(1946年月21日)