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北方領土ノート 『北方四島に移住したソ連の人々』

北方四島に移住したソ連の人々

 ●…ソ連人写真家イワン・クワチが1946年6月12日にソ連占領下の色丹島で撮影した写真の中に、ソ連人住民を写したものが2枚残されている。斜古丹湾を背景に若い夫婦と幼い子供の3人家族が写った写真には、「最初の移住者」という説明が付されている。もう1枚は母親が赤ん坊を抱いた写真でバックに斜古丹山が写っており、「ヴィチャ・オディンツォフ、色丹島に生まれた最初のロシア人の男性」という説明書きがある。ソ連軍が色丹島の斜古丹に上陸したのは1945年9月1日であり、2枚の写真はそれから9カ月あまり後に撮影されたものだ。

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ソ連人写真家イワン・クワチが撮影した色丹島・斜古丹のソ連住民(1946年6月12日)

 

●…「日本領樺太・千島からソ連サハリン州へ」(エレーナ・サヴェ―リエヴァ著)によると、ソ連軍の北方四島上陸から8カ月後の1946年4月、ソ連閣僚会議は南サハリンに4,000家族を移住させる方針を決定した。このうち3,000家族は漁業に、1,000家族は農業に従事することとされた。1946年7月までに約2,500家族、約1万7,000人の最初の移住者が到着した。島民の証言では、ソ連人の移住者が増えだしたのは1946年春以降とされており、この中に、新天地を求めて北方四島に渡ったソ連人がいたとみられる。

●…ソ連政府は移住者に対して様々な特典や優遇策を提示するなどキャンペーンを張った。移住者には、それまでの借金を棒引きし、支度金を支給した上で、賃金はハバロフスク地方の1.5倍に割増された。住宅の提供や休暇の際の旅行費用も支給され、年金受給の基準になる勤続年数の計算でも1年働けば2年分として計算されるようにした。移住に応募した人たちは、第二次大戦でナチス・ドイツに占領され、家や家族、暮らしの基盤を失ったソ連中央部の出身者が多かった。

●…北方四島にどれくらいのソ連人が移住したのか。「日本領樺太・千島からソ連サハリン州へ」によると、1946年7月1日のクリル諸島の人口19,119人、うち日本人住民は15,630人、ソ連人は3,489人とされる。また、「千の島を巡る 1946年のクリル探検」(サハリン州古文書局など)では、1947年7月時点の色丹島・斜古丹の人口は904人で、そのうち570人が日本人、ソ連人は334人と記されている。国後島の泊村は913人のうち日本人が669人でソ連人は244人だった。択捉島の留別は人口1,279人のうち日本人1,066人に対し、ソ連人は213人である。斜古丹、泊、留別の場合は6割から8割が日本人で、ソ連人はそれほど多くなかったようだ。

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接収した日本家屋に住むソ連将校の家族(1945~1946年頃、国後島の郷土博物館所蔵)

 

●…北方四島ではソ連軍が上陸した直後から、将校の家族用の住宅を確保するために、島民が家の明け渡しを命じられたり、1軒の家にソ連人家族との同居を余儀なくされていた。移住してきたソ連人は、わずかな身の回り品を持っていただけで、脱出した日本人の家を活用したり、日本人島民の家財道具などを譲り受けて新たな暮らしを始めた人も多かった。

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ソ連軍上陸後、将校の妻や子供が最初にやってきた(1945~1946年頃色丹島・斜古丹、国後島の郷土博物館所蔵)

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将校の妻たち。色丹島・斜古丹湾で(1945~1946年頃、国後島の郷土博物館所蔵)