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北方領土遺産「千島及離島ソ連軍進駐状況綴」…⑦根室支庁長布告「島民に告ぐ」

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  1945年10月、徳永俊夫根室支庁長が荒井辰男・国後出張所長に宛てた対処方針

 

 ソ連軍が北方四島に上陸し占領した時の根室支庁長は徳永俊夫氏だった。島から逃れて来る島民は日ごとに増えて、根室港の岸壁は船着き場のコンクリートにゴザを敷いてへたり込む人、泣き叫ぶ乳飲み子であふれていた。

 根室支庁は援護係を設置し、職員総動員で炊き出しや島民の落ち着き先探しに奔走した。根室港対岸の弁天島の番屋や旧日本軍の三角兵舎、防空壕などを仮住まいとして急場をしのいでいだ。

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 支庁長のもとには島の役場から「逃げるべきか、とどまるべきか」問い合わせが相次いだ。9月8日には、国後島留夜別村長から「現在も国後島は北海道の一部なのか」と照会の電報がきた。

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 根室支庁から札幌の本庁に問い合わせてもなしのつぶてだった。徳永支庁長は自分が方針を示すより他はないと決し、1945年9月と10月に2度にわたり島民に向けた布告を出す。

 当時の徳永氏に関する記録はほとんど残っていない。唯一公になっている読売新聞「もう一つの領土」から当時を振り返る。 

 --北海道庁経済第二部木船課長から根室支庁長を命ぜられ、赴任したのが終戦直前の20年7月31日。根室の町は7月14日の米艦載機の襲来で八割が焦土と化し、住民はどん底の生活をしていた。わたしの任務もまず町の復興で、吹き飛んだ支庁長官舎を建て直すため、30万円を渡されていたが、被災した支庁職員の住宅費に回したほど。そんな状況だったから、8月15日も札幌の本庁(道庁)に救援策のかけ合いにきていた。終戦玉音放送を聞き、夜行列車で飛んで帰った。アメリカが来るのではないか。いや、ソ連だ|----町民の間ではこんなうわさがもっぱら。そうこうするうち、8月28日、ついにソ連択捉島に上陸、南下を続けて9月3日には歯舞群島まで占領してしまった。もしや根室にも----と不安がったが、根室の町には9月15日からアメリカ軍一個小隊が駐屯するようになった。

  敗戦という事態で島の人たちは動揺こそしていたが、ソ聯が進駐してくるまでは、島と根室が自由に往復できたため、それほど深刻なものはなかった。しかし、ソ聯が進駐し、けん銃の威かく発射や金品の略奪がはじまると、島民は恐怖と不安で虚脱状態に陥ってしまった。「逃げるべきか、とどまるべきか」。わたしのもとには、各島の役場などから問い合わせが相次いだ。そのうちに根室港の船入り澗には、深夜の海を脱出してきた島民がひしめき出した。本庁に行政方針を何度問い合わせてもなしのつぶて。毎日が身を切る思い。それならわたしが決断しなければと、考えたのです。

 カイロ宣言ヤルタ協定ポツダム宣言を、くり返し読み、さらに支庁の倉庫をあさり、千島の歴史書や書類を捜し出しては読んだ。三日三晩寝ませんでした。

 ポツダム宣言には、連合軍は自己の利得、国土の拡張は求めない。しかし侵略した土地からは日本を駆逐する、とある。歯舞、色丹は昔から根室管内、国後、択捉は、1855年日露通好条約で得撫島以北をソ連領決めている。それが1875年樺太千島交換条約で樺太と得撫島以北を交換したのだから、国後、択捉は侵略した土地ではなく、もともと日本固有の領土だ。それなら、その足跡を証拠づける意味でも、島民は島に踏みとどまるべきだと思った。あの「島民ニ告グ」は、血を吐く思いでつづり、ガリ版刷りにして特攻船に託したのです。--

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 では、その布告がソ聯進駐下の島にどういう経路で渡ったのか。

標津郡中標津町に住む白崎厳さん。国後育ちの白崎さんは、国後で11年間も教べんをとったが、当時は根室の青年学校長。復員した教え子たちが、白崎さんのもとによく集まっていた。「島民二告グ」をなんとかして配りたいと、チャンスをうかがっていた徳永さんは白崎さんに相談した。二つ返事で復員兵たちが、特攻的「通び屋」を引き受けてくれた。そして10人が漁師に化けて島に潜入した。

 

 その後、徳永支庁長は10月10日付で、国後島にいる荒井・国後出張所長に宛てた対処方針を示した文書を出している。その全文を記しておく。

 

昭和二十年十月十日

根室支庁長  徳永 俊夫

荒井国後出張所長 殿

 

 日夜の貴官及島民各位の御心労に対し、深く敬意を表します。千島を日毎眺めて我等亦断腸の念禁じ得ざるもの有り、中央よりの招電も有り、最近に於ける千島関係情報を持参し、小泉総務課長本日上京致します。島民各位に宜敷く、一致協力暫くの御健斗を祈り上げます。

                    記

 

一 択捉、国後共にたとへ露領に編入せらるること有りとするも、之は、条約に依り決定せらるるものなるを以て、現在は日本領土たることに疑義なし。尚、米国は条約締結を本年中に決行したき意向なるも、ソ連の意向不明なる由なり(十・八 北海道新聞

 

二 北海道は本月四日以降、米軍進駐せるも、第一次進駐は函館、室蘭、小樽、札幌、旭川の五市に限り、米軍亦極めて紳士的にして、現在事故皆無なる由 道一円亦極めて平穏、根室へは本月中旬軍需資材引取の為、米軍極少数来る筈なるも差当り当分は駐屯せざる様子なり

 

三 支庁は、千島離島方面よりの避難者に付、聴取書を常に徴し、細大漏らさず其の都度道庁へ報告し、道庁亦直に中央へ連絡し善処を要請しつつあり。中央に於ても連合軍司令部と交渉しつつあるも、ソ連関係は容易に進捗せざるもの有る様子なり。然し、努力の継続は勿論なり。風聞にては連合軍司令部に派遣せられ有りしソ連代表某中将、急に本国へ召喚された(十・八 北海道新聞)点より視るも一応疑いは深まる。

 

四 ソ連占領下の現状に於ては、ソ連本国の方針が、千島島民は直ちに内地へ移住するも支障なしと決定するか、然らざれば、外交交渉の結果条約的に依り決定し、最悪の場合千島はソ連領土となり、住民は全部内地へ引揚又は国籍選択自由の決定ある迄は、日本政府としても千島住民の措置方策は樹たず、従って現状に委ねるのみ。但し、日本政府が現に千島に関し、内地との交通通信の自由、掠奪不法行為の即時停止を強く連合軍司令部に対し、要請しつつあるは現実と認]む。此際、小生としては屢々(しばしば)渡島勇士に託した如く、出来得れば老幼婦女子は、現地に於て認むる安全なる方法に於て、引揚を決行し、壮年男女は最後迄踏止ることを希望するも、最近、ソ連軍の千島における人口調査も終了したる筈の由なるを以て部落民中、其の一部の者の避難引揚決行したるが為に、ソ連軍より残留者に対し、災を及す虞れあるを予想せらるに於ては、誠に小生としても遺憾に堪えず。故に残留者に災を及すことなき様子なるに於ては、老幼女子の引揚を、現地にて考慮せらるる安全な方法にて決行すべく。又、災及す恐あるに於ては、少くとも一部落全部引揚の挙に出るを適当とす。従って、其の避難引揚は、其の機会及時節の好機たるべく、場合によっては今年は忍び難きを忍び明春霧深き季節を利用決行するを得策と信ず。勿論、それ迄に条約締結せらるるに於ては、問題は存せず。

 

五 千島関係官公衙は、ソ連軍により事実上解散せしめられたりとも、依然として領土関係決定せざる限り日本官公衙は存在し、職員の身分関係亦依然たり。故に、恐らく条約締結迄はたとへソ連領土となること有りとするも、官公衙廃止問題は、絶対起る筈無しと確信す。ポツダム宣言に於ても、千島は樺太と異なり、少くとも、当然樺太と同様ソ連に割譲さるると解するには疑義あり。又引揚官公吏に対しては、道庁関係は勿論役場関係も就職は道庁として優先考慮すべく、小生亦不及乍尽力致し度く。尚、郵便局員等に関しても、当然、本局に於て考慮し居るものと信ず。避難島民の衣食住関係に就ては、目下、戦災者扶助規程に準じて取扱つつあり。九月十五日以降、当支庁内に千島離島関係避難者相談所を設置し(坂井択捉出張所長、青木紗那助役、支庁援護係、最近泊村長加る)避難者の総ての相談援助に努めつつあり。特に、管内各町村に対して、根室以外の地点に上陸したる避難者に対しても、連絡援護に努め、現地に赴き世話をしつつあり。

 

六 在泊の官公署、関係者、貴官と行動を共にするには、其の現地に於ける一致協力状況も推察せられ、敬意を表す。

 

七 最後に、老幼婦女子の引揚に於ては、荷物は極く少量に留め、一人にても多く避難せしめらるる様、住民に対しても特段の注意を希望す。即、温かく着て金子若干と米二、三升に止めて避難し、上陸後は直に、避難代表者を以て支庁へ連絡する様其の後の措置は、支庁の責任に於て、遺憾なきを期すべし。

                                  以上

 

  徳永支庁長は昭和20年7月、道庁木船課長から第27代根室支庁長に着任したばかりで、当時37歳だった。7月14日、15日の米軍による空襲で市街地の3分の2を焼失した根室町の再建を担って赴任した。初代民選田中敏文知事時代、初代出納長を務めた。 残念ながら徳永支庁長の布告は「千島及離島ソ連軍進駐状況綴」に残っていない。